視界に映ったのは、猛烈な勢いで突っ込んでくる巨大な影と、呆然と立ち竦む子供の姿。
考えるよりも先に身体が動いていた。
彼我の距離は二十メートル。衝突までは二秒足らず。
普通の魔術師なら難なくこの事態に対処できるのだろうけれど、衛宮士郎の魔術はそこまで器用なものじゃない。
頼れるのは鍛えあげたこの肉体と、極限の戦闘で培った一瞬の判断。
最短コースで子供との距離を詰めると強引にその「服」に強化をかけて、そのまま突き飛ばす。無茶な強化だけあって長持ちはしないだろうが、勢いを相殺するには十分だ。
安堵して振り返った俺の視線の先にあったのは、巨大な死神の鎌。
次の瞬間、俺の身体は綺麗に宙を舞っていた。
意識が闇に墜ちる直前に、脳裏を横切ったのは………アイツの泣きだしそうな顔。
俺は「スマン」とだけ心の裡で呟き、地面への衝突に備えた。
『少年の理想、少女の想い』 前編
「ッッッッッ！ い、一成、オマエっ！」
「贅沢を云うな、この馬鹿者。その痛みがお主が生きているという何よりの証しであろう」
柳洞一成はギブスで固定された俺の左足をぽんぽん叩きながら、勝手な事を云う。
「お主の普段の善行をちゃんと見ていて下さった御仏に感謝するのだな。まともにダンプカーに跳ね飛ばされたにもかかわらず、大きな傷は左足の骨折のみとは。
脳波の方も全く異常なしということで、医師は奇跡と云っておったぞ」
……跳ね飛ばされる直前、投影した干将で強引にダンプの力を相殺し、後はその力に逆らわず綺麗に弾き飛ばされたお陰だった。頭部だけはしっかりと守るように腕で抱え込んでいたのも幸いした。
左足の骨折も着地の仕方が悪かっただけで、折れ方は綺麗なものらしい。一ヶ月もしないうちに日常生活に戻れることを医師は請けおってくれた。
「ともあれ、無事で良かった。お前さんが助けた子供も手足の擦り傷だけで済んだということだしな。
しかしこの病院にとってはその後の方が災難だったかも知れんな……明日の学校も大荒れだぞ、これは」
「……スマン、こればかりは俺の監督不行き届けだ。藤ねぇにはよく云っておく」
頭を抱え込む一成に、俺は真摯に詫びの言葉を告げた。
そう、つい先程までこの病院は藤ねぇの大暴れの後始末に追われていたのだ。
俺と一緒に夕食の買い物に出かけていて、その結果当然、事故の第一発見者となった藤ねぇは、即座に救急車を手配してくれた。そこまでは有り難い話だ。
しかし何を思ったのか、藤ねぇは藤村組の若い衆を総動員して救急車の後を追いかけてきたのだ。
病院の方は組の大物が抗争か何かで怪我を追って運び込まれたのかと真っ青になったそうだ。顔に派手な傷があったり、身体の「一部」が欠けている人が大量に押し寄せたら、そりゃあ医者も看護師も生きた心地はしなかっただろう。
錯乱した藤ねぇは、連れたきた組員達から俺に緊急輸血するように医師を締め上げようとしたらしい。最初医師が幾ら輸血が不要だと説明しても聞き入れなかったそうだ。
自身が剣士である藤ねぇなら、当然傷の手当てについての知識もあるだろうに。
自分の行為には迷いも躊躇いも後悔もなかったけれど、それほどまでに藤ねぇに心配をかけてしまったことだけは胸が痛んだ。
ようやく俺の無事を確認した藤ねぇは、病院への迷惑料代わりにと組員達全員に献血するように命ずると、俺の着替えを取りに一旦衛宮家に戻っていった。
次に真っ青な顔で飛び込んできたのは桜だった。
なんでも慎二がつい先日まで入院していたのはこの病院で、丁度今日は検査日と云うことで付き添いで一緒に来ていたらしい。ロビーでの大騒ぎで俺が事故にあったことを知るとそのまま病室へ駆け込んできたのだ。
桜は俺の顔を見ると、震える声で「……先輩、良かった良かった」と告げると、そのまま泣きだしてしまう。どう対応したらいいか分からずオロオロしているところに慎二が現れたのは幸いだった。
「正義の味方ごっこはいい加減にしておけよ、衛宮」
慎二はいつもの皮肉たっぷりな口調で、しかし出会った頃の屈託のなさで告げると、泣きじゃくる桜にやや乱暴にハンカチを押しつける。
その仕草でこの兄妹が本当に和解したのだと、俺は自分が置かれている状況も忘れて、我知らず微笑んでしまう。
慎二はこの後も毒舌とも、励ましともつかぬ言葉を告げると、桜と共に病室を後にした。
一成と美綴が現れたのはそれから暫く経った後のことだ。
既に第一報の段階で命に別状のないことは聴いていたらしく、入って来るなり美綴は「衛宮、空中遊泳の気分はどうだった？」と軽口を叩いてくれやがった。
うむ、心配して泣かれたり、恨み言を云われるよりこちらの方がずっと気楽だ。美綴の開口一番の先制攻撃は、バツの悪い思いをすっかり拭いさってくれる。
俺は素直にこの友人の荒っぽい心遣いに感謝した。
もっとも一成の方はそう云うわけにはいかなかった。美綴のいる間は当たり障りのない会話を続けていたのだが、美綴が一足先に帰ると途端に表情を変えた。
「……衛宮、お前、お人好しもいい加減にしておけよ！」
真剣な口調でそう告げると、一成は俺の左足を固定したギブスをノックするように叩いた。
「さて、先刻の話に戻るが……衛宮。お前さんは何故そこまで無茶なことをする？」
「……無茶じゃない。ちゃんと助けられると確信して行動したぞ、俺は」
この親友が心の底から心配してくれているのは分かっているけれど、確信めいたその物言いに、思わずむっとなって反論してしまう。
「確かに助けられると判断したんだろうな、衛宮としては。だがその『助けられる』の中に、お前さん自身の命の計算はちゃんと入っているのか？」
「………っ！」
的確に急所を突く親友の言葉に、俺は返す言葉を失う。
確かにあれ以外にも、あの場の選択肢は無数にあった筈だ。ただ瞬間の判断で俺があの手段を選んだのは、それがあの子が助かる可能性が一番高かったからだ。
そこには確かに一成の云う通り……俺自身の命の勘定は入っていなかったかもしれない。
一成には云えないが、投影した干将莫耶でダンプカーを斬るという選択肢もあった。
切嗣にも、アイツにも決して人前で魔術は使うなと堅く云われているが、人の生死に関わる場合は別だ。
そんな時に使い惜しみするくらいなら最初から魔術など学んでいない。
だけど俺はその手段を採らなかった。その選択肢を選んだ場合、ダンプカーの運転手の命の方が危険に晒されたろうからだ。
「いつも云っていると思うがな、衛宮。確かに仏法の教えとして《我が身を捨てて衆生を救う》とあるが、それはあくまで人としての生き方を、心構えを説いたものだ。
現実に今の時代でそれを実践しようと云うなら、お前さんは大馬鹿者だぞ？」
親友の言葉が、聖杯戦争で出会ったあの赤い騎士を思い出させる。
「理想を抱いて溺死しろ」
全てが終わった今だからこそ分かる。
あの言葉を吐くだけの資格が、間違いなくあの赤い騎士にはあったということを。
生涯の最期の瞬間まで、いやそれどころか英霊となり、その魂の摩滅しきるまでその理想を貫き通そうとしたあの男の、鋼のような背中が脳裏に鮮やかに蘇る。
その背中は今の俺にとって霞むほど遠く、そこへと至る道は絶壁のように俺の前に立ち塞がっている。
けれど、俺は必ずそこに辿り着かなければならない。その時にこそ初めて、あの赤い騎士が如何に凄いヤツだったのかを本当に知ることが出来るだろうからだ。
黙り込んでしまった俺を見て、何やら感じるところがあったのか、一成は大きく頷く。
「まあ、この程度の説教でお主の考えが変わるわけがないことは百も承知しておる。この話題はいずれじっくり一晩掛けてでもしてやることとして、今日はじっくり休め。
…………コホン！ それとだな、衛宮」
一成は何故だかそこで、如何にもわざとらく大きな咳払いをする。
「最初に断っておくが、俺は今でもお前さんたちが付き合っているのを決して祝福しているわけではないぞ。あの女狐と衛宮ではどうあっても釣り合わん！
だがな、衛宮。自分より他人の命を優先する前に、少しはアイツの気持ちも考えてやれ」
「！」
一成の言葉は無意識裡に考えることを避けてきた、しかし一番大切なことを俺の胸に突きつける。
「正直云ってだな……お前が事故に遭ったと聞いた瞬間のアイツの顔は、とても直視できるものではなかったぞ。天敵にあんな顔をされては、こちらが困るではないか！」
「………………」
本当に情けないことに、この時の俺はただ黙り込むことしかできなかった。
しかしこの日、俺が一番最初に詫びねばならなかった筈の少女は、俺が一番会いたかった赤い少女は、俺がこの世で一番大切に想っている遠坂凛という女の子は、遂に最後まで病室に姿を現すことはなかった。
（続く）
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