『協力の代償？』
「えっと…………これは一体？」
「これがラブレターに見えるのなら、衛宮君には眼科を勧めるわ」
眼前の赤いあくまは、メフィストフェレスに契約書を差し出した時さながらの笑顔を浮かべ、オレに一枚の紙をつきつける。
日本での最後の一年となる、オレの学生生活はこうして幕を開けた。
進級するなり、遠坂は再び頻繁に衛宮家を訪れるようになった。
一成に露骨に見せつけ、何か賭をしていたらしい美綴にオレを見せびらかすと、それで満足したのか、遠坂は学園内では以前と変わらぬふうに振る舞いはじめた。
少し寂しい気もしたが、内面さえ知らなければ文句なしの学園一のヒロインである遠坂との親密さをアピールし過ぎると、オレの学園生活の安穏を脅かされかねない。
だけどその分、放課後に埋め合わせを………と云うオレの思惑は呆気なく粉砕された。
藤ねぇには遠坂のことを「家庭教師(兼 友人以上恋人未満)」と紹介している。
実際に魔術の講義をして貰っているわけだから嘘偽りを云っているわけじゃないけれど、名目が名目だけあって実際の学業成績も疎かにするわけにはいかない。
それに今のオレには「遠坂凛と倫敦に行く」という明確な目的がある。学校の成績云々以前に、最低限の英語は喋れなければ向こうでの生活もままならない。
それだけでもハードな日々だっていうのに、かの赤いあくまは更なる難題を突きつけてくれやがった。
「この《請求書》とやらの《零》は一体幾つ並んでいるんだ？」
「数えないのは衛宮君の自由だけれども、数えなくたって現実は変わらないわよ」
遠坂が差し出したのは、聖杯戦争で遠坂が被ったと称する損失に対する請求書だった。
二枚目の明細には『強化』の修行に利用したランプから、オレの身体に魔力を通すために使った薬、そして遠坂虎の子の十個の宝石の値段が並んでいる。
こちらだけでも目玉が飛び出るほどの金額なんだが、明細の一番下にはさりげなく「提供魔力料」なんていう項目まである。
しかもそちらの金額は宝石よりも零の数が更に多い。この場合、遠坂が自分を安売りしていないことを喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか、その魔力提供に預かった身としてはどうにも微妙なところだ。
あんな凶悪なまでに可愛い遠坂の姿を思い起こすと、これでも安い…………って!?
「ちょ、ちょっと待て、遠坂！ なんだ、これは!? いや、そりゃ、確かにお前には世話になってるし………魔力は提供して貰ったけれど」
「必要経費に決まっているじゃない！」
これ以上ないってほどの笑顔を浮かべ、遠坂は何の躊躇いもなく云いきりやがった。
「私たちは協力して聖杯戦争を闘ったんだから、必要経費を折半するのは当然でしょ？ 感謝して頂戴ね？ 弟子としての謝礼はとっていないし、士郎がこうやって落ち着くまで支払いも待っていてあげたんだから」
「…………………………………………」
「むっ……………なによ、その顔は！」
言い返す言葉さえ失ってしまったオレに、紅いお姫様は随分気分を害されたらしい。
「わたし、仕方ないって言葉は大嫌いだけれど、今回の場合それこそ仕方ないのよ！
時計塔に行くまで後一年足らず。私たちには時間が絶望的なまでに足りないの！ 前にも云ったでしょ？ 遠坂の人間が当主になって最初にするのは資金稼ぎだって！」
改めて確認するまでもないが、遠坂の魔術の最大の特徴は魔力の移し替えだ。
しかし幾ら移し替えようにも、魔力を移し替える器がなければ何の意味もない。
遠坂がこれまでため込んできた宝石は先の聖杯戦争で殆ど使い果たされてしまっている。
それでもまだ宝石として原型が残っていればいいが、オレの命を救った遠坂の親父さんの形見の宝石以外は、物の見事に粉微塵だ。
そういう意味では遠坂の懸念は確かに真っ当なものなのかも知れないが、倫敦へは魔術の修行に行くのであって戦闘をしに行くわけではない。
彼の地で地道に資金を貯めて少しずつ蓄えていけば良いだけであって、焦る必要なんてないんじゃないかと思うんだが？
そう疑問を呈するオレを、この天性のイジメっ子は一蹴する。
「何を云っているの!? いい！ 幾ら招待されているって云っても、まさか手ぶらで時計塔に乗り込むわけにはいかないじゃない！
ただでさえ訳あり、コネありの入学。それも魔術不毛の地である極東から乗り込むわけでしょ？ こちらにその気がなくても敵対視されて当然よ！
きっと靴に画鋲を仕込まれたり、魔術書に落書きされたり、教室内でシカトされたりするに決まっているわ！
勿論、わたしにそんな嘗めた真似をしてくれたら十倍返しにするつもりだけれど」
遠坂は時計塔のまだ見ぬ魔術師たちに対して、既に喧嘩腰の態度で臨むことに決めているらしい。
そりゃあ、《陰湿なイジメに無言で耐える遠坂凛》なんて想像の埒外だけれども、その遠坂の相棒になろうとするオレとしては極力無用のトラブルは回避して貰いたい。
いや、それ以前に時計塔に来る魔術師はそんなセコいイジメはしないと思うんだが。
「安心しなさい。全部すぐに払えなんて云わないから。とりあえず一つ、宝石を用意して頂戴。小さな石でも質さえ良ければそれなりに使い道はあるし」
ちっとも安心できないことを宣わって、ツインテールの女王様はＸデーを設定する。
「丁度三ヶ月後の今日、《衛宮士郎》の精一杯の《誠意》ってのを見せてくれればいいわ。どんな宝石を選ぶかも修行の一環として士郎に任せるから」
遠坂の云う《誠意》ってのは、殆ど《特殊な自由業者の皆さん》の云う《誠意》と同義語だと思う。オレには選択の余地なんてものは最初から存在しないらしい。
しかし機関銃のように吐き出される遠坂の言葉をただ頷くしかないって云うのに、オレの頬は何故だか弛んでしまう。
遠坂がここまで素の自分をさらけだしてくれるのはオレに対してだけなんだ、と思うと、目尻まで下がってしまう始末だ。
「むっ………なによ、その気持ち悪い顔は！
いい!? 肌身離さず持ち歩いて魔力を移し替える大切な宝石なんですからね。いい加減なものだったらただじゃおかないわよ！」
語気を荒げてそう告げる遠坂がとても愛おしく思えたのは………惚れた者の弱みなんだろうな、やっぱり。
その日から、オレの毎日は更にハードなものとなった。
放課後は直行でアルバイトの日々。当然短時間で高収入の道を選ぶ以上、専らハードな肉体労働だ。
それ自体は以前からの生活とさほど変わらないわけだけれど、その後には遠坂による魔術講義と、専ら英語を主とした勉強まで待ち構えている。辛いとまでは云わないが、消耗することだけは確かだった。
しかし、毎日のようにアルバイトに出かけるようになって新しい楽しみが出来た。自宅に帰り着くと遠坂の手料理が待っているということだ。
毎日のように「家庭教師」としてやって来る遠坂に対して、藤ねぇの抗議の声が大きくならなかったのも、ひとえに遠坂のこの料理の腕のお陰だった。
一日の仕事を終えて帰ってきた自宅に用意されているのが、誰よりも好きな女の子の手料理。男としてはこれ以上ないってほどの幸せな時間だけれど、それに浸っていられる時間はごく短い。
食事後はハードな魔術講座とそれ以上に困難な英語の習得が、サド侯爵も吃驚ってくらいなスパルタ教授と共に待ちうけているのだから。
「えっと………大丈夫ですか、先輩？」
三ヶ月の期限が目前に迫った頃、アルバイト帰りにばったり会った桜に声を掛けられた。
よほど顔色が悪かったのかもしれない。
桜は、憑き物が落ちたように、昔の身勝手ながら優しい性格に戻った慎二の世話を甲斐甲斐しくしていて、夏休みに入った今は、こうして街中でくらいしか顔を会わさない。
聖杯戦争後、オレと遠坂がオレ達なりの後始末をしている間にも、間桐家にはいろいろあったらしい。
詳しいことは桜も教えてくれなかったけれど、最終的には教会の代行者の中でもかなり高位の女性が、間桐家と聖杯との関わりを完膚無きまでに消し去ってくれたそうだ。
桜の力になれなかったことは残念だけれど、慎二との仲も元に戻り、学園での桜の笑顔をしばしば見かけるようになったのは、素直に嬉しいことだった。
「大丈夫大丈夫。バイト三昧の日々ももう少しだけだしな」
「そう云えば、もうすぐですものね、姉さんの」
桜は何か納得したように頷くが、こちらとしてはいまいち要領を得ない。
「？？？ あれ？ なんで桜は遠坂への借金返済の期限なんて知っているんだ？」
「借金って何のお話ですか？ ………えっ？ 先輩、それじゃあ、そういうつもりでバイトされていたわけじゃなかったんですか？」
猛烈な胸騒ぎに促されて、オレは慌てて桜に《そういうつもり》の内容について問い質す。そして桜の言葉を聞き終えると同時に………自分の鈍さ加減に頭を抱え込んでしまう。
「えっと、と云うことは………」
「確かに姉さんらしいですね。それで先輩は………どうなされるおつもりなんですか？」
桜は悪戯っ子のような笑みを浮かべ、真っ赤に染まったオレの顔を覗き込んだ。
「遠坂、スマン」
約束の期限の日、オレは家に帰って来るなり開口一番、遠坂に頭を下げた。
「スマンってどういうことよ！ まさか買い忘れたなんて云うんじゃないでしょうね!?」
遠坂の身体からは、紅蓮の炎のような怒気が溢れ出す。今のオレなら北斗七星の傍らに、小さな星まで見えるかもしれない。
普段の遠坂なら、顔で笑って口で猛毒を吐き出すんだろうけれど、どうやらそんな擬態をする余裕すらないということらしい。
………あの日、桜にばったり出会ったお陰でどうやら命拾いしたようだ。
「いや、買うには買ってきたんだが、ちょっと予定を変えた。ペンダント型じゃなくて、指輪なんだが構わないかな？」
「………そりゃ、構わないけれど、指輪だと少し使い勝手が悪いのよね………」
先程の激昂が今更ながら失態だと気付いたのか、遠坂はそっぽを向いてぼそぼそ云う。
正直に云えば、もう少しだけ焦らしてみたい気分もあった。
今後は幾度も繰り返されることになんだろうけれど、なにせこれは最初の経験だ。もう暫しの間だけこの破裂するような心臓の鼓動を感じていたい。
でもこの期に及んでも本心を明かそうとしない、意地っ張りの少女がたまらなく愛しくなって、綺麗にラッピングして貰った小箱を差しだしながら告げる。
「誕生日おめでとう、遠坂」
まさにワインレッドという言葉が相応しい色に染まった遠坂の顔。
その手は差し出された小箱に伸びるでもなく、まるで子供のように意味もなく上へ下へ、右へ左へと行ったりする。
小さな桜色の唇からは言語になる以前の、原始的な音の塊が漏れだして、主の緊急事態を告げていたりした。
要するに、どうやら遠坂凛は見事に機能停止してしまったらしい。
オレとしても、まさかここまでとは思わなかったけれど、嬉しい誤算だった。
考えてみれば、幼い頃に父親を亡くした遠坂にとっては、貰ったことのある誕生日プレゼントと云えば言峰の、とても遠坂には着られそうにない服だけだったんだろう。
いつまでもこうして固まってしまった遠坂を見ていたかったけれど、これ以上放置しておくには、後からの報復が怖すぎた。
小箱を包む可愛らしいラッピングを、綺麗に剥がして蓋を開ける。
箱の中から現れたのは、米粒のように小さいけれど、ただの一片の混じりけもない、遠坂凛という少女そのもののような真っ赤なトパーズ。
宝石店を何軒も回ってようやく見つけた、魔力的な意味あいからも、姿形から云っても、遠坂と最も相性の良さそうな、深紅の宝玉だ。
「………………て頂戴………」
「はいっ？」
蚊の泣くようなその声が遠坂凛の口から出た物だとは最初到底信じられなかった。
「えっと………悪い、遠坂。いまなんて云ったんだ？」
顔を真っ赤に染めたまま俯いてしまった遠坂を覗き込むようにしながら問い返す。
「…………めて頂戴、って云ったの！」
なんだか背筋が猛烈に寒くなってきたのは気のせいだろうか？
「スマン、聞き取れなかった。もう一度云って貰えるか？」
「だから、私の指にはめてって云っているのよ！ この馬鹿士郎っっっ!!」
突如豹変した――いや、いつもの姿に戻った遠坂は、オレの胸ぐらを掴み上げると、大音声で怒鳴り散らした。
「えっと、おかしいな」
七回目のチャレンジも見事な空振りに終わった。
女の子の指のサイズなんて分からないから、それだけは店員さんに遠坂の背格好を伝えて見繕って貰ったんだが………どうしたものか指輪は遠坂の指に収まらなかった。
根本的にサイズが間違っているのか、それとも遠坂の手を取るだけで妙にドギマギしてしまって、手が震えてしまうのがいけないのか、人差し指にも、中指にも指輪は上手くはまらない。
当然小指ではサイズが大きすぎるし、親指にはまるワケもなく。
残っているのは…………………
いや、オレとしては、いつかはその指に似合う宝石を用意して、思い切りロマンチックなシチュエーションとともに受け取って貰いたいと思っているんだが、いまいきなりそれをするのは、問題があり過ぎる気が………でも、オレが遠坂のことを好きだって気持ちは正義の味方を貫くって云う理想同様、一生変わりそうもないもんだから、遅かれ早かれ変わらないワケで。
飲み込んだ唾の音が妙にクリアに鼓膜に響く。
「えっと………どうやら薬指で試してみるしかないみたいなんだが、いいかな、遠坂？」
先程来、再び沈黙してしまった遠坂は良いとも悪いとも云わない。ただ何かに耐えるように、じっと顔を俯けているだけだ。
心臓の鼓動が限界まで跳ね上がる。連続して投影をしたって、固有結界を張ったとしたって、これほど心臓が爆発的に肥大化したりしないだろう。
まるで他人の腕みたいに麻痺してしまった左手を遠坂の手に添え、瘧のように震える右手に指輪を持って、それを遠坂の薬指に…………
「はい、ご苦労様。衛宮君、そこまで」
張りつめた緊張の糸を尽く切り刻むような軽々しい言葉と共に、オレの右手から魔法のように指輪が消え去っている。
「士郎、魔術師の癖に軽々しく魔法なんて言葉を使うのはやめなさい。底が知れるわよ」
呆然と見詰めるその先には、まるでサトリの化け物のように見事なまでにオレの内心を読み取った赤いあくまが、邪悪な笑顔を浮かべていた。
そして俺の手から忽然と消えた誕生日プレゼントの指輪はと云えば………彼女の中指に見事に収まっている。
えっ？ えっと………な、中指？
ちょっと待て！ ということは、さっき何度試してもはまらなかったのは………！
「誕生日プレゼントからいきなり婚約指輪に格上げするなんて、幾らなんでも飛躍のし過ぎでしょ？ 大体これを薬指にしたら士郎の借金全部チャラにされちゃいそうだし」
遠坂凛は、このツインテールの赤いあくまは、ジェットスターのような状況の激変に翻弄されるオレを、ずっと観察していたワケで………。
「と、遠坂、オマエ……！」
オレは泣きたいような、笑って誤魔化すしかないような表情で、満面の笑みを浮かべる遠坂を迎えるしかない。
………一成、オマエの忠告はやっぱり正しかったみたいだ。
でもオレはこんなあくまみたいなところも含めて遠坂凛という少女に心底惚れてしまっているんだから、今更それを嘆いても仕方ないし、嘆くつもりなんて微塵もない。
「わたしの薬指に指輪をはめたかったら、ちゃんと借金を全部返してからにしてね、士郎」
眩しい笑みを浮かべてそう言い放つ遠坂が何処までも愛おしくて、オレは改めてこの少女と共に歩み続けることを誓った。
《終》
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